田中代表は、実在する。

 

孤高の存在のため滅多に姿を現さないが、人類の平和のため、いつも日本全国を飛び回っている。

今日もあなたの街のETCゲートを開け閉めしているはずだ。

田中代表は、幼少の頃、おでん型UFOの中に連れ去られ、インプラントされたというのが定説である。

 

この時から時空を超えて安土桃山時代に行ったり、暗闇の中をサングラスを掛けたまま走行する能力を身につけた。

田中代表は、皆が2速でゆっくり進入するセクションを、4速全開で駆け抜ける。

また、田中代表は、ハイスピードコーナーで転倒すると、イン側に数メートル吹っ飛んでいく。

 

自然の摂理を覆す我らの代表が、速くないわけがない。


19××年 ×月 ×日 我らが田中代表、熊本県にて生まれる。
       
?年 ?月 ?日 田中代表、おでんを食している時にオデン型UFOに遭遇。伝説が始まる。
       
1995年頃     とある集いにて知り合った者達が、一緒にオフロードを走り始める。
この頃には、「田中レーシング」という言葉は既に使われていた。
田中代表も既に雨男として高名であった。
       
1999年 10月 16~17日 メンバーの多くが、他チームに混ぜてもらう形で坂内2DAYSエンデューロに参加。
       
2000年 10月 14~15日 自前チームにて坂内2DAYSエンデューロに参戦。
レース中に「田中麗震愚」の名が生まれる。
田中代表のハードなライディングにリヤブレーキが悲鳴を上げ(踏みっ放しともいう)、4セットものブレーキパッドを消耗。
また田中代表は、エンジンを再始動することができず、コース途中に放置して歩いてピットに戻ってくる。
この頃より、他のチームから「いつもトラブっている」というレッテルを貼られる事に。
       
2001年     田中代表に彼女が出来た事が発覚、業界に激震が走る。
時を前後して、田中代表がロン毛をやめる。
田中代表、GPZ900Rニンジャを購入。しかし、まともに走っているのを見たことのある人は少ない。
       
2002年 3月 31日 栄光の年間シリーズ戦、「タナカップ」が愛知県青少年公園(現モリコロパーク)にて開幕。
       
  8月   田中代表、「店長、走って下さいよ」の名言を残す。
       
  10月 26~27日 芋樽号にて坂内2DAYSエンデューロに参戦。やはりトラブルに見舞われる。
       
  11月 ?日 田中代表、飲み会の帰りに彼女に迎えに来てもらう。
       
2003年 5月   田中代表、ガリガリ君で当たりを出す。
       
      田中代表、タチゴケ修理に大枚をはたいたニンジャを売り払い、CRM250を購入。しかし、まともに走っているのを見たことがある人は少ない。
       
  10月 18~19日 坂内2DAYSエンデューロ。田中代表欠場のため、他のチームに混ぜてもらう。
       
  12月 12日 田中代表、まさかの結婚。
       
    28日 近所の焼肉屋にて田中代表の結婚祝賀パーチーが開催される。
       
2004年 10月   台風23号の影響によって、前日になって坂内2DAYSエンデューロが延期となる。
初めて田中麗震愚オリジナルグッズが製作される。この時は田中代表のご尊顔入りステッカーと、ピット用のバナーであった。
       
  11月 13~14日 台風23号によって延期となった坂内2DAYSが開催される。
芋樽号が壊れまくり、レース中に溶接作業を余儀なくされる。
某誌に田中代表の写真と共にレポートが掲載される。
       
  11月   田中代表、皆の予想を裏切ってボイラーの試験に合格。
       
2005年 10月 22~23日 初期メンバーの不参加などにより、坂内2DAYSエンデューロにてメンバーが少なくて苦しむ。
この年は田中麗震愚オリジナルバーパッドが製作された。
       
2006年 6月頃   田中代表の結婚などにより沈静化していたチームの活動が、俄かに活性化。
田中麗震愚オリジナルステッカーが大量製作され、メンバー内で飽和状態になる。
       
  8月   田中麗震愚公認クラブとして「坂内パンククラブ」発足。
       
  9月   田中代表に長男誕生。
       
  10月   坂内2DAYSエンデューロで、序盤にトップに立つという珍事を引き起こす。
が、田中麗震愚のお家芸、マシントラブルにて一気に後退。
       
2007年 3月   オフィシャルブログ開設。
この頃から、チーム内で肩書きが定着し始める。
       
  10月   坂内2DAYSエンデューロにて序盤トップグループを走るものの、リヤハブが割れるというトラブルが発生、これを引き金に夜半過ぎにリタイヤ。「あのチームはいつもトラブっている」というイメージを不動のものとする。
       
  11月 1日 田中代表、転職。急に付き合いが悪くなる。
       
2008年 6月   坂内2DAYS必勝プロジェクトが発動。
       
  9月 13~14日 田中麗震愚青組、坂内2DAYSエンデューロにて悲願の総合優勝。DQNチームの汚名を払拭。
田中代表、「思い出なんていらねーよ」と言い残し、レース場を後にする。
       
  11月   滋賀國分舞杯どろんこレースにて、宇宙戦艦ヤマトに架装したスクーターで参戦。やはり怪しいチームである事を再認識させる。
       
2009年 7月   オフィシャルホームページ開設。
       
  10月   田中代表の顔入りステッカーが、エジプトの砂漠を駆け抜ける。
国際問題になることが懸念されたものの、見事完走。
       
  10月 17~18日 田中麗震愚青組、坂内2DAYSエンデューロにて総合優勝、2連覇達成。
       
2010年 1月 10日 富士スピードウェイにて行われたスーパーママチャリGPにて、ベストパフォーマンス部門準優勝を受賞。
遂に国際レーシングコースの表彰台に立つ。
       
  5月 4~5日 田中代表、春の合宿中にまさかの帰宅。
       
  10月 16~17日 坂内2DAYSエンデューロにて、アイアンマンクラス(一人で24時間走行)に出場。
赤組との2台体制で完走。
       
2011年 10月 15~16日 坂内2DAYSエンデューロで、夜中の3時半ごろに上流の神岳ダムが放流を開始し、ピット&パドックが川に飲み込まれるという、前代未聞の事態となった。
       
2012年     JNCCのAクラスにおいて、メンバーがまさかの一桁ゼッケン(02)を獲得。
全てがネタというチームの特徴を台無しにする。
       
  10月 20~21日 恒例の坂内2DAYSエンデューロ。とても平凡な結果に終わる。
       
2013年 9月   田中代表は相変わらずだが、マネージャーが練習走行中に転倒して負傷、2度にわたる手術を受ける。
また、メカ長事件勃発。
HPをサーバー移転して復活させる。
       
  10月 19~20日 坂内2DAYSエンデューロにて、トレール250クラスにて優勝。